文豪たちの素顔

内田百閒の素顔 猫たちと過ごした奇妙で愛情深い日常

Tags: 内田百閒, 猫, 随筆, 日常, 人間性

偏屈な日常に見え隠れする愛情

内田百閒といえば、汽車好き、大食漢、そして何より偏屈な人柄で知られています。彼の随筆や交流の記録からは、周囲を煙に巻くような言動や、独自のルールに固執する姿がしばしば描かれており、そのユニークな人間性は多くの読者の関心を引いてきました。しかし、そんな百閒の素顔を語る上で、決して欠かすことのできない存在がいます。それは、彼が深く愛した「猫たち」です。

百閒の日常は、猫たちによって彩られ、時にはかき乱されました。特に有名なのが、愛猫「ノラ」との間に繰り広げられた、失踪と探索を巡るエピソードです。随筆『ノラや』に克明に描かれたこの出来事は、百閒という作家の人間性を深く知る上で、非常に示唆に富んでいます。

愛猫「ノラ」との奇妙な旅路

百閒は、ある時ふらりと現れた一匹の黒猫に「ノラ」と名付け、心底可愛がりました。随筆からは、ノラを単なるペットとしてではなく、まるで人間の子どものように、あるいは自分自身の片割れのように扱う百閒の溺愛ぶりが伝わってきます。ノラの食事の世話や、部屋での気ままな振る舞いを眺める百閒の眼差しには、彼の普段の偏屈さからは想像できないほどの温かさと、どこか寂しげな愛情が感じられます。

しかし、そのノラが突然姿を消してしまいます。百閒の動揺は尋常なものではありませんでした。彼は、ノラを探して町中を歩き回り、電車に乗り、知り合いに尋ね、果ては遠方の地域にまで探しに出かけます。その探索の様子は、『ノラや』の中で詳細に綴られており、読者は百閒の深い悲しみと、時に滑稽に見えるほどの必死さ、そして猫という小さな存在に対する彼の途方もない執着を目の当たりにすることになります。

このノラ探索の旅は、文字通り「奇妙な旅路」でした。周囲からは理解されがたいその行動からは、百閒の孤独な内面や、他者(この場合は猫ですが)との絆に対する強い希求が見て取れます。また、旅の途中で出会う人々との交流や、猫を見つけるための様々な試みは、現実と非現実が入り混じったような独特の雰囲気を醸し出し、後の彼の小説世界にも通じるものが感じられます。

猫たちが映し出す百閒の人間性

ノラを失った後も、百閒は様々な猫を飼い続けました。彼にとって猫は、常に身近にいる、気まぐれで掴みどころのない、しかし確かな温もりを持つ存在でした。猫たちの自由奔放な振る舞いは、百閒の日常に変化と刺激をもたらし、彼の観察眼を養ったことでしょう。

猫たちとの関係性を通して見えてくるのは、百閒の偏屈さの裏にある、極めて人間的な側面です。彼は猫に一方的な愛情を注ぎますが、時に猫の思い通りにならないことに苛立ち、不思議なルールを課すこともありました。これらのエピソードは、百閒が決して聖人君子ではなく、私たちと同じように複雑で矛盾を抱えた一人の人間であることを物語っています。

また、猫の「不在」は、百閒の作品において重要なモチーフの一つとして繰り返し現れます。ノラを失った経験は、単なるペットロスではなく、百閒の思想や世界観にも影響を与えたとうかがえます。掴もうとしても掴めないもの、いつの間にか去ってしまうものへの哀惜や、満たされない孤独感が、猫という存在を通して彼の作品に滲み出ているのかもしれません。

猫という視点から見えてくるもの

内田百閒を語る時、鉄道や大食、そして偏屈さといった要素は確かに重要です。しかし、彼の日常において、そしておそらくは彼の内面において、猫たちが占める割合は非常に大きかったと考えられます。猫たちと過ごした奇妙で愛情深い日々は、百閒という作家の人間性を形作る上で、見過ごせない要素であったことがうかがえます。

猫という視点から内田百閒の随筆や小説を読み返してみると、これまで気づかなかった彼の心の襞や、作品の底流に流れる情感が見えてくるかもしれません。猫は、私たちに安らぎを与えるだけでなく、時に飼い主の意外な素顔を引き出し、その人生や創作活動に静かに、しかし確かに影響を与えているのではないでしょうか。百閒の場合、その影響は特に色濃く、彼の作品世界を理解する上で重要な鍵となっているように見えてきます。