谷崎潤一郎の知られざる日常 関東大震災後の関西移住と作品への影響
谷崎潤一郎、人生と創作の大きな転換点
文豪・谷崎潤一郎といえば、『痴人の愛』に代表される退廃的でモダンな世界や、『細雪』に描かれた関西の上品な暮らしといった、幅広い作風を持つ作家として知られています。彼の作品には、一貫して「美」への強いこだわりが見られますが、その美意識や創作の方向性は、人生のある大きな出来事を境に大きく変化したことがうかがえます。
その出来事とは、1923年(大正12年)に関東を襲った未曽有の災害、関東大震災です。震災を機に、それまで主に関東地方、特に横浜や小田原といったモダンな土地で暮らしていた谷崎は、活動の拠点を関西へと移しました。この移住は、単なる地理的な変化にとどまらず、その後の彼の日常、そして創作活動に決定的な影響を与えることになります。
関東時代の日常と作風
関東大震災以前、谷崎潤一郎は横浜や小田原などに住み、西洋的な文化やモダンな生活様式に強い関心を持っていました。『痴人の愛』に登場するナオミのような、西洋かぶれのモダンガールへの偏愛や、コンクリート造りの家に住みたいといった願望は、当時の彼の日常や美意識を反映している側面と言えるでしょう。この頃の作品には、欧米への憧れや、当時の新しい風俗を描写する傾向が強く見られます。
関東大震災、そして関西へ
1923年9月1日、関東大震災が発生します。谷崎は小田原で被災し、その凄まじい体験は彼の内面に大きな衝撃を与えたことが想像されます。震災後、東京や横浜が壊滅的な被害を受けたこともあり、谷崎は活動の場を関西へと移すことを決意します。
当初は京都や大阪を転々としますが、やがて阪神間の芦屋や苦楽園などに居を構えるようになります。この関西への移住が、谷崎のその後の人生と文学を大きく方向づけることとなりました。
関西での日常、日本の美への再発見
関西に移り住んだ谷崎は、それまで傾倒していた西洋趣味から徐々に離れ、日本の古典文化や伝統美に深く関心を持つようになります。京都や大阪、阪神間の風土や人々の暮らしに触れる中で、日本の古いもの、伝統的なものの良さを再認識していったことが、彼の手紙や随筆といった資料から読み取れます。
特に、関西の食文化、言葉(京阪の言葉)、そして上方好みの女性像といったものに魅せられていった様子がうかがえます。美しい着物、しっとりとした物腰、奥ゆかしい言葉遣いなど、彼が再発見した日本の美は、そのまま彼の日常に溶け込んでいきました。日本の伝統的な家屋に住み、日本の古い美術品や古典文学に囲まれて暮らすといった生活は、関東時代とは大きく異なるものでした。
日常の変化が作品にどう影響したか
この関西での日常の変化は、谷崎の創作活動に明確な形で反映されます。震災前の『痴人の愛』のような作品が西洋的なモダニズムを色濃く反映していたのに対し、関西移住後の作品には、日本の伝統美や古典への傾倒が顕著に見られるようになります。
例えば、戦前から執筆が開始された長編小説『細雪』は、阪神間に住む旧家・蒔岡家の四姉妹の日常を通じて、関西の上流家庭の生活、言葉、文化、そして失われゆく日本の美を描き出しています。この作品に流れる穏やかで優雅な雰囲気は、彼が関西で見出し、愛した日本の伝統的な日常そのものと言えるでしょう。他にも、『陰翳礼讃』のような随筆では、日本の美の根源を「陰翳」の中に探求するなど、この時期以降、彼の筆致は明らかに和風への傾倒を深めていきます。
関東大震災後の関西移住は、谷崎潤一郎にとって単なる住居の変更ではありませんでした。それは、彼が自身の美意識の源泉を、西洋から日本へと大きく転換させる契機となったのです。関西での日常を通じて日本の伝統美を深く吸収した経験が、彼の後半生の作品に唯一無二の輝きを与えたことがうかがえます。作品を読む際に、この大きな移住とそれに伴う日常の変化を思い浮かべることで、谷崎文学の新たな一面が見えてくるかもしれません。