泉鏡花の素顔 潔癖症と奇行はいかに作品世界へ繋がったか
幻想世界の創造者、泉鏡花の知られざる素顔
泉鏡花と聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、妖しくも美しい幻想的な世界観ではないでしょうか。『高野聖』や『外科室』といった作品に見られる、夢と現(うつつ)が交錯する独特の雰囲気は、今なお多くの読者を魅了しています。しかし、その作品世界の背後には、想像もつかないほど人間的で、時に常軌を逸したとさえ言える鏡花の日常や内面がありました。伝記や同時代の人々の証言といった情報からは、彼の作品世界を形作ったであろう、極度の潔癖症や数々の奇行といった側面がうかがえます。今回は、そんな泉鏡花の意外な素顔に迫り、それらが彼の作品や創作活動にいかに影響を与えたのかを読み解いていきたいと思います。
極度の潔癖症と特異な感覚
泉鏡花の人間性を語る上で、まず避けて通れないのがその極度の潔癖症です。例えば、彼は水に対して強いこだわりを持っていました。外出先から帰宅すると、まず手洗いを入念に行い、その際に使う手ぬぐいも特定の場所でしか洗わない、といった習慣があったと伝えられています。また、食べ物にも強いこだわりがあり、特に生魚や一部の野菜を口にしないといった偏食があったことも知られています。
こうした潔癖な側面は、単なる衛生観念というよりは、世界に対する鏡花独自の、非常に鋭敏な感覚から来ていたようです。彼は、目に見えないものや感覚的に「汚れている」と感じるものに対して、強い嫌悪や恐怖を抱いていたことがうかがえます。この特異な感覚は、彼の文学における「異界」や「怪奇」といったモチーフと無縁ではないでしょう。現実世界の些細な汚れや不純物への敏感さが、かえって彼の想像力を刺激し、清らかでありながらも不穏な空気が漂う、あの独特な幻想世界を構築する一助となったのかもしれません。
数々の奇行が示す内面の風景
鏡花の潔癖症は、時に周囲から見ると奇行と映る行動にも繋がりました。特定の場所を通るのを極端に嫌がったり、特定のものを目にすることを避けたりすることもあったようです。例えば、彼が豆腐や湯葉を食べられなかったのは、それらが「白く」「ぶよぶよしている」という形状が、彼の内にある何かに対する嫌悪感と結びついていたためだと言われています。また、特定の動物、特に犬や猫を極端に恐れたというエピソードもよく知られています。
これらの奇行は、単なる偏屈さではなく、鏡花の内面にある、非常に繊細で独特な心理状態の表れと見ることができます。彼にとって、現実世界は常に予測不能で、不快なものや恐ろしいものが潜んでいる場所だったのかもしれません。こうした世界に対する不安や恐怖、そしてそれを避けようとする衝動が、奇行という形で表面化していたのでしょう。そして、この現実世界への畏怖や嫌悪感こそが、彼の作品に登場する、理不尽な運命や不気味な存在、そしてそこから逃れようとする登場人物たちの心情に深く関わっている可能性が考えられます。現実から逃避し、あるいは現実の裏側に潜む「異界」を描くことで、彼は自身の内面の不安と向き合っていたのかもしれません。
人間的側面が作品に与えたもの
泉鏡花の潔癖症や奇行といった人間的な側面は、彼の感受性を極限まで高め、現実世界を独自のフィルターを通して見る目を養ったと言えるでしょう。通常の人が見過ごすような細部や、感覚的な違和感に鋭敏であったからこそ、彼はあの精緻で独特な描写を生み出すことができたのです。
彼の作品に繰り返し現れる水、霧、坂、橋といったモチーフや、白、黒、赤といった印象的な色彩、そして美しいものと恐ろしいものが同居する世界観は、彼の日常生活における感覚や心理状態と深く結びついていたことがうかがえます。現実の「汚れ」を恐れる潔癖さが、作品における清らかで人工的な美しさへの偏愛に繋がり、現実の「不気味さ」や「恐怖」への敏感さが、作品に宿る怪奇性や不安感を醸成したのかもしれません。
鏡花文学を新たな視点で楽しむ
泉鏡花の極度の潔癖症や奇行といった人間的なエピソードを知ることは、彼の幻想的な作品世界をより深く理解するための新たな視点を与えてくれます。作品に描かれる異界や怪奇は、単なる空想の産物ではなく、作家自身の内面にある不安や恐怖、そして世界に対する独特の感覚が色濃く反映されたものだと考えると、その神秘性はさらに増すでしょう。
次に泉鏡花の作品を読む際には、ぜひ彼の人間的な素顔を思い浮かべてみてください。現実世界に生きづらさを感じながらも、その鋭敏な感性をもって独自の美の世界を創造した文豪の姿が、作品の行間から立ち現れてくるかもしれません。